コレクターインタビュー: 福武英明 Part 1

Tuesday 10 June, 2025

株式会社ベネッセホールディングス取締役会長で公益財団法人 福武財団の理事長である福武英明さんにお話を伺いました。福武財団は直島・豊島・犬島を中心としたベネッセアートサイト直島の美術館事業、日本各地における文化・芸術による地域振興活動への助成事業、瀬戸内国際芸術祭などの支援を行っています。アートだけではなく経営にも知見を持つ福武さんに5月に新しくオープンした直島新美術館について、そしてご自身のアートとの関わりについてお話いただきました。

ある程度のカオス感、混沌は必要なもの

5月31日に直島新美術館が開館しました。今、この時代に新しい美術館を開館された想いを教えてください。

久しぶりに新しい美術館を開館しました。今まで我々が直島でやってきた美術館と比べると新しい挑戦で、美術館の名前自体も「直島新美術館」。我々にとっても新しい挑戦ということで館名に「新」を入れました。名前に「新」が入るのは象徴的で、いつの時代にも新しく、パブリックだけれども挑戦的な美術館っていう形を考えていて、具体的には、アジアのアーティストを中心に展開していきます。

直島の今までの美術館って綺麗に整理整頓されていて、シュッとしたイメージあるじゃないですか。それに比べると、今回はカオスみたいな混沌とした美術館だっていうところが今までと1番大きな違いです。

例えば、地中美術館はクロード・モネ、ジェームズ・タレル、ウォルター・デ・マリアの3名のアーティスト。犬島精錬所美術館は柳幸典さんで1名。。その後の豊島美術館は内藤礼さん1名で、その後、李禹煥(リ・ウファン)美術館も李さんだけをフォーカスしています。
今までは建築も含めてフォーカスを当てるアーティストが、1名や多くても3名だったが、今回の直島新美術館の開館記念展示―原点から未来へ は展示アーティストが12組なので、改めて、10以上のアーティストと一緒に展示を作ることは我々にとってもチャレンジングです。でもやっぱり次の直島の展開を考えていくと、ある程度のカオス感、混沌は必要なものと思って、今回の取り組みをしています。

ベネッセアートサイト直島(BASN)では、自然にアートが介入し、地元の方と国際交流で国内外から訪れる方をつなげているように思います。各アートプロジェクトの発端にはアートやアーティストが先に念頭にあるのでしょうか?またはサイト、現地の皆さんの暮らしの中から構想が立ち上がるのでしょうか?

美術館と作品次第です。直島の代表的な施設である地中美術館は、最初にモネが手に入ったことが大きい。2x6mの作品が手に入って、その後それをどういう風に表現、展示するのかを考えました。作品にとって最も良い形でメッセージ性が発揮できるように安藤忠雄さんに美術館を作っていただき、さらにそのモネの作品と合うようにデ・マリアとタレルを選んだので、どちらかというと作品ありきの美術館。

豊島美術館だと、最初に西沢立衛さんが決まり、建築家をベースに相性の良さそうなアーティストをずっと探していました。色々変遷があって、最終的に内藤礼さんになりました。李禹煥美術館はアーティストがメインで、李さんの美術館を作ろう、という話になった時に、どういう建築がいいのかな、という話から安藤さんにやっていただいた形になりますので、美術館によってだいぶ違います。

毎回意識しているのは相性です。アーティストと建築家の相性は非常に重要だと思っていて、今までの経験を振り返ると、ある程度仲が良い方がいいけれど、仲が良すぎるとお互い忖度してしまったりするので、一定の緊張感がありつつ、意見は言えるけどお互いリスペクトできるという関係性が1番理想的なのではと思います。
地中美術館は少し喧々諤々する場面もありました。豊島美術館では、内藤さんは内藤さんで、西沢さんの建築がどういうものか、考え方も理解しながら、作品を決死の覚悟で提案していた。そういういい関係性の美術館、いい関係性のクリエイターが繋がると、いいものが出来ると思います。

Chichu Art Museum. Photo: FUJITSUKA Mitsumasa

継続性とか永続性を意識している

BASNが魅力的である根幹には、素晴らしいコレクションと展示、アーティストとのつながりがあると思います。どのようにアーティストや作品をリサーチされているのでしょうか?

今、全体のキュレーションは三木あき子さんがインターナショナル・アーティスティック・ディレクターとして担ってくださっているのですが、我々の活動以外でも様々な仕事をされているので、あらゆる場面で展示や状況のフィードバックをくれます。他には財団の中でアートのマネジメントチームもあるので、色々な人がそれぞれの観点で見ています。僕は展覧会にはもちろん行きますが、僕と父だとよくオークションのカタログを見ます。(最近オンラインが多いので、個人的には紙に戻して欲しい。)そうしたカタログを見ながら、父と僕でああだこうだ言ったりする時間が面白かったり。ニュージーランドのオフィスには大きいテーブルがあるので、複数の年代の異なるカタログのページを並べて同時に見たりするのですが、個人的にはそれが好きで、立体的にカタログを見ると作品との関係性とか展示をイメージしやすい。それからアートだけじゃなくて、できるだけ他の、例えば伝統芸能、歌舞伎、文楽、クラシック音楽も観たり聴き事をたり意識しています。

我々の活動は継続性とか永続性を意識しているので、長く続いている伝統芸能は、非常に関連性が高い。時間がある時はできるだけ観に行こうと思っています。ただ、事前に「観に行きますよ」って言うと案内されるので言いません。案内されると緊張するので(笑)。

自由にぱぱぱっと観たいケースも多いので、比較的、数は観ているけどスピーディーに観るケースが多いかもしれないですね。個人的にも財団としても色々なところで、色々な人たちが探してくれています。
地方の伝統芸能も、特に直島は、女文楽っていうのがあって、あと、海外のローカルな伝統舞踊は好きで観ます。

日本社会において、アートコレクター、また福武財団はどのような役割を担っていると思われますか?

福武財団は公益財団法人なので、いわゆる金銭的なリターンとは関係なく、社会にどう貢献して、価値を提供していくのかという公益性は担保したいです。一方で、福武財団という名前の通り、プライベートが発端の公益財団っていうユニークな立ち位置。企業財団でも国の財団でもないというところで、やりたいことを長い目線でわがままにやっていきながら、社会的なインパクトを出せる活動をしたいと思っています。

例えば、今理事長をやらせてもらっていますが、福武財団の理事長がちょこちょこ変わることは多分ない。そういう面を活かして、公益財団法人として長い時間軸のユニークな活動をしていきたいです。ファイナンシャルのリターンに関しては完全に無視したら活動の継続性が担保できないので、リターンは追求はするけれども、次の世代、50年後、100年後にちゃんと返ってくればいい。我々は時間を味方につけた活動をしやすいので、そう考えるとだいぶ違った視点で活動ができる。

会にとって長期で見たら価値があるけれども、短期で見るとファイナンシャルのリターンがない活動っていうのが我々の得意なところです。腰を据えてやっていき、長く続ければ、最終的に回収されるイメージがあるので、できるだけ他の団体、個人や組織ができないぐらいの長いスパンで、意味のあることに取り組んでいきたいです。

世代を超えて長期的に活動を続けることについてもう少し詳しく教えてください。

例えば、行政の領域では市長さんや知事が変わると前任と違った取り組みをしなければ、というプレッシャーがあるのではないでしょうか。
僕も新しく理事長になった時に気を付けたのは、今も名誉理事長で残っている父に対するカウンターみたいな活動はしないようにしようということ。2代目とか3代目だと、自分の存在感を出すために新しいことを打ち出すのは多いけれど、色々見てきた中でそんなにうまくいっているイメージもない。もちろんうまくいくこともあるけれど、我々みたいに長い時間軸で活動しようとすると、短期で目立つよりも長期で良いことをやった方が良い。

前理事長がやってきたことは、本質的にも非常に価値のある素晴らしいことだと思うので、それをいかに引き継いで、続けていくかを考えています。続けていくだけでもだんだん差や違いは自然と生まれてくるので、僕は肩肘張って新しいことをやるよりも、今までやってきたことをちゃんと引き継いで、必要なことは少しずつ加えていくってことが大事だと思って活動しています。個人的には新しいもの好きな性格なのですが、なるべくぐっと我慢して、世の中のために頑張っています。

今の現代アートシーンの中で、ゆっくりじっくり新しい日本ならではの価値を作っていけばいい

日本の現代アートシーンが時代とともに変わったと思うことはありますか?

現代アートっていう形だけでアートシーンを見ているわけではないのであまりわからないですが、例えばマルセル・デュシャンからスタートすると、まだたかだか100年ちょっとぐらいで、比較的新しいスポーツというか、ゲームですよね。そう考えると、日本人ってルールの中でアジャストしていきながら独自なカルチャーを作っていくのは得意なので、欧米が作ってきた「現代アートのルール」の中でバリューを出さなきゃいけないというのはあまり気にしなくてよいのでは?このまま数十年日本独自の進化を遂げていけば、日本的な現代アートみたいなものができてきて、日本にとってはそういう風なものを作っていくことの方が価値があると思います。

他人が作ったルールの中で戦うとやっぱり勝てない。茶道、華道や浮世絵とか、自分たちがルールメーカーになって作ったルールであれば独自の価値っていうのを作っていけると思う。今の現代アートシーンの中で、ゆっくりじっくり新しい日本ならではの価値を作っていけばいいのかなって。瀬戸内国際芸術祭はひょっとしたら日本独自の進化を歩んでいて、いわゆるヴェネチア・ビエンナーレといった国際的な芸術祭と一線を画すような取り組みだと思うし、そういうのはどんどん継続していけばいいのかなと思っています。いい感じでゆっくり進化しているんじゃないですか。いい感じでガラパゴス化していったらいい。

アートに携わってこられた中で、ご自身のライフステージが変わるにつれてアート作品の見方に違いはありますか?

それはありますね。常に色んな形で作品を見たいとは思っています。この前、東京都現代美術館でやっていた坂本さんの展示、「坂本龍一 | 音を視る 時を聴く」のタイトルが面白かった。「みる」という漢字って他にどういうのがあったっけって。一般的な「見る」、心情的に芸術体験を鑑賞する「観る」、注意深く見たりする視力の「視る」、それに病院で使う、本質的に微細な変化を見ていく、診療の「診る」。そう考えると、様々な見方がありますよね。英語で「みる」ってlook、watch、seeぐらい。日本人の方がもう少し情的に見るような単語もあるし、その時に多様な形で作品や世の中を見ていくのは大事だなと思っているので、最近は注意深く見るようにしています。そしてそれは大人の特権だなっていう風に思ってきたのです。

よく「子供のように見た方がいい」と言うことがありますが、そんなの無理で、あんなピュアな心はもう持てない。一方で、時間をかけて注意深くゆっくり見るのは大人ならではの特権で、逆にピュアな気持ちを持つ子供だとなかなかできない。もう1つは、自分の関心のないものを見る事も、子供にはなかなかできないことですよね。美術館や展覧会に行った時に、あまり興味ないなと反射的に思う作品は、よりゆっくりじっくり、あらゆる角度から見るようにしています。瞬間的な学びがあるかどうかは別ですけど、そういうことを繰り返していると、多様な見方ができるのかな。

様々なアート作品を見たり、アーティストやクリエイターの方と話をすると、同じ事象でも全然違う角度から発言されたりするケースがあって、「なんなんだこいつら」っていう場に遭遇することがあります。例えば、nendoが昔やったrain bottleという作品は霧雨、五月雨、時雨、といった様々なな雨を作品化しているのですが、日本語で「雨」って多分10とか20ぐらいの表現ができて、英語だとrainやheavy rainしかないかもしれない。あらゆる単語があるが故に、社会的な問題や、世の中で起きていることを多様な感受性で見られることはとても豊かなことだと思いました。1つの現象をどういう角度で見ていくのかはすごく重要だし、多種多様な作品を見た時にこそ、気づくことがあります。

逆に言うと、関心のないものを見ないと、自分にとって心地いいものしか見なくなる。感受性の豊かさは、放っておくと 大人になるにつれて失われていく気がしていて、心地いいものしか見なくなる。その中では気持ちがいいけれども、一定の見方しかできなくなってしまうのは、視野が狭い人間になってしまう。そうならないためにも、できるだけ広い視野を持って世の中を見たいなと思っています。

<近日、インタビュー後半も公開予定です。アートと教育、アートにおける官民協業について、学校でアート作品を購入!?、そしてTokyo Gendaiへの期待などを伺いました。お見逃しなく!>

Portrait of Hideaki Fukutake by Yasutaka Ochi

福武英明 Hideaki Fukutake Profile

株式会社ベネッセホールディングス取締役会長で公益財団法人 福武財団の理事長。福武財団は直島・豊島・犬島を中心としたベネッセアートサイト直島の美術館事業、日本各地における文化・芸術による地域振興活動への助成事業、瀬戸内国際芸術祭などの支援を行っている。

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